教室を毎日脱走していた発達障害児を成長させた教師の教え


教育とは’s語りー西川幹之佑さん

 

 現在、大学一年生(取材時点)の西川幹之助さんは、発達障害の特性に長年苦しんできた経験をもつ。幼稚園に入園直後「手に負えない」と言われ2時間で中退。小学2年生までは特別支援学級で過ごし、小学3年生からは強く希望して通常学級に転籍するも、トラブルだらけで、毎日教室を飛び出すような学校生活を送った。周囲からは忌み嫌われ、自己肯定感はゼロ。小学3年生で、すでに「死」を考えるようになったという。そんな西川さんは、東京都千代田区立麴町中学校に入学し、大胆な学校改革に挑んでいった工藤勇一校長(当時)に出会ったことで、人生が拓けていく。 

 今、そんな西川さんが自身の経験をつづった『死にたかった発達障がい児の僕が自己変革できた理由-麴町中学校で工藤勇一先生から学んだこと』(時事通信社)という本が話題だ。現在は人並みの自己肯定感をもち、落ち着いた大学生活を送っているという西川さんに、発達障害児が学校生活で感じてきたことや、成長のきっかけなどを聞いた。

 

 

ー 西川さんにはどんな発達障害の特性があり、どんな悩みを学校生活で抱えていたのでしょうか。

 

 注意欠陥多動性障害(ADHD)とアスペルガー症候群(ASD)の傾向、それから学習障害の診断を受けています。ADHDの特性で、幼児の頃から鉄道やロケット、航空機、ミリタリーなどに異常なまでの興味をもち続けてきました。

 学校でも同じで興味のないことにはまったく集中できないのに、社会科など自分の興味のあることは、先生にマニアックな質問を重ね続けました。しかも、僕は頭の中に次々といろんなことが浮かんでくる特性があります。それを質問の最中に「これも聞いちゃおう」という感じで唐突に口にしていたので、周囲には僕が言いたいことが伝わらず、教室では「分かりませーん」などとヤジが飛ぶことも度々でした。小学校ではよくからかわれて、取っ組み合いのトラブルを起こしていました。

 それから、学習障害のために漢字や計算が苦手でした。大好きな社会科などでテストの点数が悪いと、パニックになっては教室を飛び出すといったことも繰り返していました。

 

 

ー テストの点が悪いだけで、なぜ教室を飛び出すほどのパニックになるのですか?

 

 僕は教室を飛び出したくて出ていくわけではありませんでした。発達障害者は感情の起伏が大きいと言われ、僕も喜怒哀楽の度合いが激しいです。社会科の授業内容は完璧に理解しているのに、漢字のミスで×が付いているのを見ると、「なぜだ」という怒りが湧いてきて自分でもどうしようもなくなっていたのです。ですから小学校では、教室を飛び出した後は、静かなトイレ、自分を理解してくれる養護の先生がいる保健室、見守りボランティアさんがいる玄関などにいくことで、気持ちを落ち着かせていました。

でも、教室を飛び出すことで、ますます勉強についていけなくなり、暗黒時代のような小学校生活でした。小3で生きる意味が分からなくなり、死を考えるようになりました。

 

 

ー ご自身に発達障害があると理解したのは、いつ頃のことですか?

 

 大分小さい頃、もしかしたら、記憶がはじまるくらいからかも知れません。いろんな病院にいき、保育園や小学校に上がるときに大人たちが僕をめぐって大騒ぎしているのを見て、自分の発達に何らかの特性があるということは、もう気が付いていました。


 
 

ー 自分の発達の特性を理解していた西川さんにとって、信頼できる教師とは、どのような接し方をする先生でしたか?

 

 これは、僕に対する接し方というよりは、子ども全般に対する接し方かもしれませんが、一人の人間として敬意をもった接し方・話し方をしてくれる先生です。

 僕は自分が発達障害児だと理解していましたが、特別扱いしてもらいたいと思ったことは一度もありません。むしろ、障害児だからという理由で、幼い赤ちゃん言葉で話しかけられるのは、どうにも我慢できないことでした。なぜなら、そこに「あなたたちは特別」という大人の意識が見えていたからです。しかし、小学生の僕にはこれを言葉にできず、反発するばかりでした。

 発達障害児にとってもメンツはとても大切です。むしろ、いつも失敗ばかりで自分に自信がないのでちょっとしたことですぐに傷つき、敏感に反応してしまいますので、「普通」に接してあげてほしいと思います。僕は本を出版後、お世話になった先生方に渡しにいったのですが、信頼している先生の僕に対する話し方は、昔も今も同じだと気付き、「だから、この先生が好きだったんだ」と改めて思いました。

 

 

ー そんなつらい思いをしている西川さんは、麹町中学校に入学して工藤勇一校長(当時)に出会うことで、人生が一変したと伺いました。麴町中学校でどんな気付きを得たのですが?

 

 いろいろあるのですが、一番は、人生には「最上位目標」が必要だということでした。発達障害の療育では、ソーシャルスキルトレーニング(SST)というのがあり、低いハードルをいくつも用意して、コツコツとクリアしていくことが求められます。でも、僕はこのSSTが好きではありませんでした。なぜなら、何のために、いつまでやるのかが明確ではないからです。

 工藤先生が掲げる最上位目標とは、「自律した生徒」になることです。工藤先生のすごいところは、この目標を障害のある・なしに関係なく、すべての生徒の目標にしていたことです。ADHDの子どもは、常に刺激を求めてワクワクしていないと落ち着きません。刺激があると落ち着かないのではなく、逆なのです。僕は「自律」という一生かけないとたどり着けないような刺激的な目標を見つけ、18歳までに何をしていくべきなのかということを、逆算して考えられるようになりました。そして、高校は海外に留学する、そのために英検受験に挑むといった行動も起こすことができました。

 僕のような発達障害児は、何かにチャレンジしようとすると、「どうせできないよ」とか「そんなの無理」と言われることがほとんどです。麴中で、工藤先生が発達障害の僕にも分け隔てなく高い目標を示してくれたことに、心から感謝しています。

 

 

ー麹町中学校でも「死にたい」という感情は抱いていたのですか?

 当初はもっていました。トラブルを起こしては、カッとなって自分の首を絞めたり、階段から飛び降りようとしたりして、先生方に必死に止められていました。でも、中2の夏休みの終わり頃、「9月1日は子どもの自殺が最も多い日」というニュースを家族で目にした後に、工藤先生から届いた一斉メールを読んでから、そうした気持ちはだんだんと抑えられるようになりました。

 

 

ーどんなメールだったのですか?

 記憶ベースですが、「宿題が終わった子もそうでない子も心配いりません。元気な子も元気でない子も、とにかく学校に顔を見せにおいで。困ったことがあったらいつでも校長室に来てください。麹中は君たち一人ひとりを待ってます」といったことが書いてありました。僕は、これを読んで部屋でボロボロ泣きました。苦しんでいるのは自分だけでないこと、理解し受け止めてくれる先生方がいると感じたからです。

 これ以降、僕は「死にたい……くらいつらいから、保健室にいっていいですか」と言い換えるなどして、なるべく「死にたい」と口にしないように努めました。今では、もう死にたいと言うことはありません。

 

 

ー 最後の質問ですが、この本にはご自身やご家族も含めて、つらい経験や暗い過去もさらけだしています。現役の大学生という立場で、本名でこうした本を出すことに迷いはなかったですか?

 

 はい。一切ありませんでした。なぜなら、僕の今の最上位目標は、発達障害児でも生きやすい社会をつくることだからです。僕より年下の発達障害児に、同じ失敗をせずに済むようになってほしい、工藤先生から学んだことを知ってほしい。編集者さんからも心配されたのですが、社会をよくするためには匿名の本では説得力がないと思い、実名にこだわりました。

 


 

西川幹之佑(にしかわ・みきのすけ)

2002年新潟県三条市生まれ。東京都千代田区立麴町中学校、英国・帝京ロンドン学園卒。2022年3月時点で、帝京大学法学部政治学科1年生。2022年2月に『死にたかった発達障がい児の僕が自己変革できた理由-麴町中学校で工藤勇一先生から学んだこと』(時事通信社)を刊行。

 

 

*『月刊教員養成セミナー 2022年6月号』「教育とは’s語り」より

「教育とは?」を考えているトップランナーたちの「問わず語り」インタビューです。様々な分野の第一線で活躍している人たちに、教育について思うこと、ご自身の経験などをつれづれに語ってもらいました。

 

 

 

 

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